昭和四十九年二月二十二日 朝
X御理解 第七十八節
神の気感に適うた氏子が少ない、身代と人間と壮健とか揃うて三代 続いたら、家柄 人筋となって、それが神気感に適うたのじや 神気感に適はぬと、身代もあり、力もあるが壮健でない、壮健で賢うても身代を満たすことがあり 又、大切もものが死んで、身代を残して子孫を断絶して、しまう、神のおかげを 知らぬから、互い 違いに なって来る 信心して神の大恩を知れば、無事壮健で子孫も続き 身代も 出来、一年勝りのおかげを受けることが出来る。
人間と身代と壮健とが揃はねばならん愈五つの願い、合楽でいはれる、五つの願いがその願いが成就、いわゆる御祈念が願はれる訳であります、体の丈夫を願はねばなりません、体の丈夫はね、やはり神様の御都合と云う病気があります、ですからいくら願ってもそれは神様の御都合ですから、神様の願いが、いうならばそれに依って成就している場合があります、例へば久富勇さんあたりの御夫婦があんなに、これは医者に行ったら二人とも大病でしょうね、けれども医者にかかられぬ、体があんなに不自由であるのに、奥さんはいつまでも一晩中痛んで、苦しんでおられるけれどもこうやって朝参りだけは出来ると云う、まあこれは絶対神様の御都合だと、だからどうぞ御都合かというと。
私は神様の、願いが成就しておる、そういう感じが致します、だからそういうそんなら例へばそれを、やあやあいうても出来ない、その気感に神様の願いが成就するということです、その間に本気で信心をわからせて頂くという行き方にならねばならん、かというと、そうではない願えば頼めばすぐおかげになるということもある、例へば私が五つの願いからこの方、全然風邪を引かない、昨日風邪ひいたんですけども、そのために寝るというたことのない程のおかげを頂いております、体の丈夫を願っておる。
昨夜も、私は夜中に足が熱うなるのです、だから、足だけは両方外へ出さなければできない、そして何か足の先で、しびれた様で、ずーっと誰かに揉んでもらったらよかろうと云う様に、こうしびれた様になっているのです、寝むとその様にあるのです。
寝ながらです、ほんにこんなことお願いしたことはなかったが、お願いさせて頂こうと思って蒲団の中でお願いさせて頂いた、それからお手洗いにども立って、それから寝まさせて頂きました、もう全然足も温らないし、しびれも感じない、こう云うのなんかはね、例へばそうでしょう、何かとお願いをする、それはどうしても聞いてはやられんけれども、それならこのことをお願いしょう、うんその位のことならよかたいと云うてから、簡単に云う事を聞かれることがあるでしょう。
それは願はなければおかげにならんとだから、私はこれは、あの時々それを体験するのです、いつかも話した様に、沢山私は氷水を頂くですから、氷水を沢山頂くとこの頭がもうその頭痛がするのです、して来るのですね、いっときばかりのことですけども、だから折角頂くのにこんな苦しい思いをせんならんとなら、いけんからと思うてお願いをして、あの氷水を頂くときに頂くのです、おかげで以来冷たいものを食べたときには頭がこうジンジンする痛さを感じなくなりました、いうならば願えば簡単に、聴いて下さることがある。
一昨日、佐田のおばあちゃん一寸具合がわるい、お願いさせて頂いた、ほんと親先生、嘘の様におかげ頂きました、そういうことがあるのです、そこが願はんから、おかげにならん、例へば人にものを頼むでもです、或る難儀なものを頼みに行った、あぁそれは一寸大変な事ぢぁやるな、けどもそれはちょっと聞いて上る訳には行かんところ。
例へばまあなら十万なら十万の金を借りに行ったと致しましょうか、いやそれはとても出来んばのなら千円ばっかりでよかですけん、なら千円位なら一寸上げておこうというくらいのもんです、だから願はにゃ損と云う言い方はおかしいですけど、願はなければいけないのです、これは神様は願はれ役氏子は願い役と仰るのだからまあそういう意味でです例へば健康なら健康という、人間と丈夫というその丈夫の日々丈夫のおかげを頂いて行かねばいけません。
昨日或る金光様の先生です、熊本の久し振りに昨日参って見えたんですけれどもいろいろと、親先生、合楽に来ると来るたんびに限りないおかげを頂いとられると言うことが来ただけで感じられる、いわゆる無尽蔵のおかげが、限りなく感じられる、先生どげな信心したらこげなおかげが頂かれるのじゃろうかとそれは私の真似ばせんけんくさいと、その真似がどこば真似したらよかでしょうかと云はれる、だから私も簡単に説明出来なかったから、そのこと神様にお取り次ぎさして願った。
皆さんでもそうですよね、私の真似さえすれば私と同じおかげが受けられるのです、勿論それは形に表れるところだけではない心の真似もせねばできません。
それをまた聞かれるとです、充分説明出来なかったからお願いさせて頂くいたら、若先生の部屋に昔私が使っておった冷房クーラが附いてます、それをね、取り放したところを頂いた、だから壁にしてあるので取り外したら向こうの方は、うっぽんぽんに外が見える訳です、それで私はそのことを云ったんです、例へば暑いときに成程、涼しいいはば、楽なおかげを頂くためには、冷房が利いた部屋は夏でも、汗も出らん、快適な生活が出来る、けれどもそれを取り外したりです、それをとり放したら、もう向こうは明け放しでございますと云うおかげが受けられる、三代金光様に、或る方が、ある難儀な問題をお願いなさった、そしたら金光様がねあちらは明け放しでございますと仰った。
そげなことは御心配いりません、限りない、おかげと云うものは限りないもの無尽蔵なもの、それをこちらが頂き止めなければいけない、もうそれこそ楽はかつかつ苦もかつがつと云った様な行き方は、だからもう楽しよう楽しようのためにした信心したっちゃ本当のおかげは受けられないと思うです。
そこで私がいつも云う様に楽はせんぞと云う気になりなさい、自分から求めて、楽をしょうとする気にはなるなと、神様がちゃんと、高い石段から石段を上って行くと、段々昇ってきついときには、休息するところがちゃんと造ってある様に、神様がちゃんと、楽はさせて下さるのだ、だから神様がさせて下さる、楽ならば、それはどんな極楽でも、良いじゃないか、それを求めてするな、自分が楽したいばっかりに、信心しよるというたことでは、だからそれはいつまでたってもそれは丁度、ルームクーラーを入れて、夏は快適の涼しさ、冬は、適当な暖房の中で。
これは冷房とか暖房とかの意味ぢゃないですよ、そういう道理なんだ、それを取りのぞいて、楽をしょうという気を取り除いたら、向こうは明け放しだと云うことです、だからそこに信心は有り難さとか、楽しさというのである、そこに信心修行の尊さもまたあるのです。
そのためには、だから、どうでも、成り行きを大事にせねば、先生でけませんもんねというて話したことです、そうですもんね、私達が楽したい楽したいばっかりで、神様にお願いしよるけんおかげ頂かん筈ですねと云うて帰られた訳ですけれども、子孫も続き身代も出来、一年勝り、代勝りのおかげを、限りなく無尽蔵に、おかげが頂けれる道ということはです。
神様の、神の大恩を知らなければならない、神の大恩を知るためにお互い信心を修行を神様ちゃ恐れ入ってしまうなあと、こげなことなら早う願やよかったという様な、簡単なこと、すぐその場でおかげになる様な、おかげもありゃ、と いうても、押しても引いてもそのことは、絶対おかげにはならんけれども、こちらの目に見えない方が成就しておる、いうならば、神様の願いが、神願が成就しておる、といった様な場合もある。
あの人は何というでしょうか映画俳優に馬のごと顔の長か俳優がおりますよ、下作な、品のない悪い変な顔です、何とかいう、新劇から入った、俳優のね、馬の面のごと顔の長いとの口元の悪いですね、もうこれが俳優でないならば人が相手にせんごたる顔です。
ところがどうですか、演技力は抜群ですから、もうその俳優でなければならんと云う、役役がつくでしょう、又実に演技力が素晴らしいです、一寸名前を忘れました。
問題はね、信心も同じことです、私の様なものがというですけれども、けれどもなら私の様なものだけれどもなら私自身がですよ、なら演技力を身につけて行くとします、勿論、信心の演技力です、そこから大坪総一郎でなければ出来んという様な、お取り立てを頂くのです、只今、例へば願いのことについても、又は限りないおかげの頂けることのためにも神の大恩を知ればと仰るが、なら神の大恩は話しを聞けばすぐわかります。
もう本当に神様のおかげと頂かねば立ち行かんことがわかります、けれどもそれがね、只わかっただけでは、それをわかった人、金光教の信心する人は皆わかっているですけども、身代も出来、人間も出来、丈夫でもない、所謂子孫も続き、もうそれを無尽蔵のおかげを頂いているかと云うと、頂いてないでしょうが。
だから知った丈けぢやいかんとです、神の大恩をこれに感じなければ、五体に感じなければ、心に感じる、その感じるその心がです、止むに止まれん心となって、神様の願いに応えて立たしてもらう、という様な信心も生まれて来るわけです、神様の心がわかるから、神様の大恩がわかるからです、神の大恩がわかればです、子孫も続きというのでなくて、神様の大恩がわかるから、そうしなければ居られないという、行き方の中に人間も出来て来る、身代も出来て来る、健康にもなって来る、という事なのです。
だからわかると云うて、頭で一ぺん通りわかるというだけではないのです、ずーからわからにゃいけん、真からわからにゃいけん、そしてその大恩を感じたときです、その大恩に報いなければ居られないというこころが生まれて来るのです、ゆとりのある信心をせなければゆとりのあるおかげは受けられません。
私は三時十五分に起きます、そして三時半に此処に出て来ます、いうなら眠い一番よか時間を三十分間、いうなら三十分早く起き上がって来る、三十分間のゆとりがある御神前に出るまでに、ゆとりのある信心。
それこそ目こすり目こすり、じだ走りして出て来る、さあ時間に間に合う様にというゆとりがないゆとりのある信心をさして貰う、おかげを頂かにゃいかん、そして昨日あたりの御理解とね、もう一ぺん頂き直さにゃいかん、信心とは一年一年有り難うなって来ると云う、そこを一々確かめながら、信心のいうなら演技力を身につけさせて頂くところからです、神の大恩をこれにひしひしと感じて来る、ひしひしと感じて来るから、そうしなければ居られなくなって来る、私共の場合はそうです。
段々そこがわかって来た、そこでなら自分でお馳走食べたくなる、自分で面白いものを見げに行きたいと思う、今日だんいっちょ温泉にどん行こうかという気をサラサラすてて所謂楽はせんぞともう決めこんでいる、だから神様が、さあお芝居があるぞと神様の方から招待状が来る、さあ今日どこ温泉からぞとそれこそ大名扱いとはこのことだろうかと思はれる様な、と云う様な雰囲気の中に、それは温泉旅行に招待されることが出来る。
自分から望んで行くところじゃない、神様がさせて下さる、だから有り難いということもまた、格別なのです、だれよりも有り難い、そこでお互い只今、修行中と云う様な看板は上げときなさい、看板は下げる、只今修行中、お店でも只今営業中とあればお客さんも入って来る、只今休業中と書いとったら誰も入って来ないでしょう、だから私共が本当に只今修行中、と云う札をかけとくなら、先日はこの村中の田中さんが、温泉旅行がある、自分は一つも或る願いのために、行きたいとは思はない、それならあんた、止めたが良いじゃないか、口実はどげな嘘でも言える、いうならば只今修行中という札を下げておきなさい、そすともう人からです、誘はれんです、あの人はとても温泉行きなんてとても行きはしなさらん。
只今修行中という、札を下げときなさい、どうでも一つ人間も、身代もそれに伴う健康、壮健というものもしかもそれがね、段々三代続いたら、神の気感に適うたというそういう気感に適うた氏子である、いうなら、私が初代であり、それが二代三代に、続いたときに、それは安定したいうなら、家柄人筋となって、愈繁盛のおかげが頂いて行けれる、という、教えておられる訳であります。
それには何というても、神のおかげを知らんから、神の大恩を知らんからと、だから神のおかげを知るところから、願って見なければいけない、このことはどうでもおかげになろうとも、しないけれども願ったらもうそのことが、その場でおかげを下さる願はなければ頼まんことは神は知らん、願はにゃいけん、願うことに依ってそこにおかげが、それをいうているわけです、神のおかげを知ることが出来る、成り行きを大事にさせて頂く、楽はせんぞと云う行き方からです。
愈神の大恩を、知ることが出来る、そして向こうは明け放しといえる、をいわゆる一年まさり代勝り、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るという様な、おかげにつながって行くのです、それこそ私が今日御心眼頂いた、何とかいう俳優じゃないのですけれども、本当に見ぐるしい下品な下作な、心じゃろうと思います、いやそうです、自分を思うて見る、自分の様な穢いものが、あるぢゃろうかと思うです、だからそういう人間が、人から相手にされるわけがない神様からいうならば相手にされる筈がない、自分の様なものところが自分の様な、こんな目苦しい者が、私だけれども演技力が素晴らしい。
いうならこころの使い方が素晴らしい、もうお前ばかりは試し様がないという様な、おかげを下さる、いうなら心の使い方の名人といはれる、その人でなければ出来んと云う、ところに抜擢されるところの舞台がそこに待つている訳です、演技力を身につけて行かねばなりませんそこから神のおかげがわかり、神の大恩も愈わかりそのおかげに対して大恩に対して、報い奉らなければ居られんという、生き方が信心生活であります、それが出来るから、段々勿論そういう信心を繰りかへされている内に、人間も身代も壮健も約束される訳でございます。
皆さん本気で願はにゃ出来んです、五つの願いでも本気で願はにゃいかんです、例へば以来私がいつも風邪ひいとったのが、風邪をひかん様になっただけでも、神様が聞きござることがわかるでしょうが、ゆうべの私の体験でもそうですもう神様がはがゆい思いをしなさることがあろう、もう願へば聞いてやりたいのだが願はんからというところもあろう。
だから願うところは本当に願はしてもろうて、おかげを受けて、壮健の上にも、おかげを受けさして貰はねばいけん、神の
大恩をいよいよ、わからせてもらう、そして大恩に報いる行き方が出来るところから、この七八節にいうて下さる、神の気感に通うた氏子、そこの一家一門という様な、おかげを受けて行くことが、神様の願いですからね、どうぞ。